4. 山男の歌

雲取山で山嫌いになってから10数年後、カナダのバンクーバーと米国シアトルとの間の国境近くに位置するマウント・ベーカーのスキー場で転んでも転んでも雪まみれになったまま平気な顔をして立ち上がり急斜面を滑り降りていく女性がいた。妻との最初の出会いであった。私がアメリカのシアトルにあるワシントン大学へ留学した最初の冬である。ところで私には山よりも嫌いなものがあった。歌である。聴くのは嫌いではないが歌うのが苦手であった。大人になっても知っている歌は「ポッポッポ鳩ポッポ」くらいであり「君が代」ですら歌詞を知らなかった。とにかく歌が苦手であった。カラオケのない頃には集まりがあると多くの場合車座になって酒を飲み、宴たけなわともなると誰かが歌い始める。するとみなの手拍子が始まり「お次の番だよ」と順番に歌わされる羽目になる。こんな場に出くわすと私は必ず胃が痛くなり居ても立っても居られなくなり自分の番が回ってくる前に何か口実を見つけてはその場から逃げ出すのであった。スキー場で家内と出会って間もない頃シアトルの先輩の家で集まりがあった。 

暫くすると恐ろしい事が始まった。「お次の番だよ」である。急に胃が痛み出した。困ったことに中座する言い訳が見つからない。そうこうするうちにも順番は確実に近づいてきた。そうして終に私の番が来た。何も出来ずに暫し沈黙が続いた時突如彼女が立ち上がって「娘さん、よく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ・・・」と歌いだしたではないか。「山男の歌」であった。私を見かねて助け舟を出してくれたのだ。これ以来私は彼女には頭が上がらなくなった。今では我が家の「山の神」となっている。

「山男の歌」で窮地を救われた翌年の夏、シアトルの先輩が婚約パーテーをしてくれることになった。その日に彼女に誘われて岩山に登った。Mt.Rainier 近くのマウント・サイである。頂上近くには両手で懸垂をしなければ先に進めない岩場があった。私は高所恐怖症なので躊躇したが彼女に先に登られてしまう。目をつぶってでも頑張るしかない。ここで登らなければ男がすたる。ようやく登りついた頂上からの眺めは正に絶景。山をどうやって下ったかは覚えていないが麓まで降り雪解け水の渓流に飛び込んだ。身を刺すような冷たさであるが心身共に洗われ、始めて登山の楽しみを味わう。今でも山小屋にたどり着いてのビール一杯や下山後の温泉は登山の楽しみであるがMt.サイ下山後の渓流での水浴の気持ちよさに勝るものには未だ出会っていない。